息子(希生)からこんな話を聞きました。

「それを聞いたとき、どう思ったの?」と聞くと

希生から伝わってきたものは、友だちが親に人として扱われていないことへの怒り。
普段学校生活において、学校という組織で感じている歯がゆさと大人への不信感でした。
子どもの頃の傷
その話を聞いて、子どもの頃を思い出していました。
親の機嫌を損ねるとよく小遣いを減らされました。
機嫌を損ねないようにするためには、どうしたらよいのか。
どうすれば怒られず、小遣いを減らされず、親に認めてもらえるのかを考えて過ごしました。
条件付きでないと愛してもらえない寂しさが、いつもわたしの心にありました。
大切なものが減らされていく悲しさだけでなく、過剰な期待も同じ傷を生みます。
妹は勉強のできる子だったので、母の期待が大きかったのです。
「(成績で)一番を取ったら〇〇を買ってあげる」と言われて育ちました。
妹は欲しいもののために、親からの承認のために勉強を頑張りました。
大学に入ったと同時に頑張ってきたタガが外れたそう。
タガは樽を固定するためのもの。
妹は何のために勉強してきたのかが分からなくなったと言っていました。
何も知らないわたしは「親に大学へ行かせてもらっておいて、ふらふら遊んでいるってどうなの!?」と思っていました。
お互いに寂しさを抱えていたと知ったのは、大人になり子どもを産んでからでした。
頑張らせたい、その奥にあるもの
ウソ~!そんな話があるんだ!?と思うでしょう。
実は無意識なだけで圧力の大きさは違っても、そこら辺じゅうにある話なんです。
友人と会ったときに、小学生の娘さんの習い事について会話しました。
「スイミングはまぁまぁ楽しんで行っているものの、ピアノは全然練習しなくて困る。楽しんでいるようにもあまり見えなくてまったく」…と。
「英語に興味を持ち始めて習いたいと言い出しているけれど、スイミングもピアノも中途半端なのに新しいことを始めるのはどうなのか」という内容でした。
友人は「ある程度形にしてから辞めさせたい」「やるからには練習してほしいし、上達してほしい」という思いがあるようでした。
「スイミングは背泳ぎまで終わったら辞めてもいいよと伝えてあるの」「ピアノは2年契約しちゃったから、何となく形になるまでは頑張ってもらって…」
そう言う友人の心にどんな思いがあるのか気になりました。
途中で辞めたらどうだ?と思っているの?
それはどうしてそう思うの?
会話の中で見えてきたものがありました。
「わたしには得意なものがないから、子どもには得意なものを何か一つでもいいから持ってほしい」
「あぁ、そうか。中途半端で辞める自分はダメな自分だと思っているから、それを娘にも思っているのかもしれない・・・」
うんうん、わたしもそうだったの。
自分が運動神経が悪くて苦労したから、希生には何のスポーツでもいいから、楽しいと思えるものを見つけてほしくてあちこち探したんだった。
最初はそこに子どもの気持ちもあったかもしれないけれど、いつの間にか自分主導で動き出して、勝手に目標定めて子どもを引っ張っていた。
そんなこと、ありませんか?
愛情に満たされている安心感が全てのベース
「〇〇したら、〇〇になるよ」
「〇〇しないなら、〇〇だからね」
つい言ってしまいがちな言葉…。
勉強のために、叱られないために、小遣いのために頑張ったことが、その先にどんな実をつけるでしょう。
その先に確実に生まれるのは親への不信感。
いやいや、愛情からだから。あなたのためだから・・・?
子どもに向けている視線を、自分の中の満たしたいものに視点をシフトしてみてください。
愛情に満たされている安心感がベースとなって、子どもはやりたいことを見つけることができます。
お子さんが何かができないと感じても、それは誰のせいでもなくて個性です。
輝ける場所やものが他にあるだけ。
わたしがち親や大人ができることは、すごくシンプルなのだと、わたしもようやく気づくことができました。
子どもに対しても、自分に対しても頑張りすぎていませんか。
深呼吸をして、肩の力を抜くイメージをしてみて下さいね。