「自分」を知らなかったわたしは、「自分らしい」の意味がイマイチ分からなかった。
半年ほど前に、ブログに対しての思いを書いた記事の一部です。
距離が近いからこそ生まれる悩みもあるけれど、それは自分の中で上手く消化していけばいいし、心底ダメと思った時は辞めればいいと思っています。
元々同じ場所に執着しないタイプ。家の中でも職場でも、愚痴はあまり口にしません。
病んでいる時は無言という名の瞑想。たまってどうしようもなくなった時(というより、落ち着いてきた時)に自分の状況を説明したり、オモシロおかしく話したりすることはあります。
愚痴を並べると余計に疲れてしまう。吐いた言葉が、自分に返ってくる感覚があるのです。
かっこよく書いているだけで、負の感情は見たくないって書いています。
以前は愚痴やストレスを聞くのが苦手でした。
夫がわたしと会話しようと「今日なにかあった?」と聞いたのに「口にすると余計に疲れちゃうからやめておく」と断った回数、数えきれません。
夫の愚痴がストレスだった理由は、夫の抱えているものを自分も抱えているような気分になったから。
今は夫の中にある願いを一緒に見つけながらの会話です。自分とつながりながら、夫の言葉に寄り添います。
意識が変わると、会話が変わり始めました。
とはいえ、静の時間もわたしにとって必要なので、パワーがないときに無理はしませんよ。
どうしてもがいていたのだろう。
何に揺れているのかも分からない不安定さ。
同じ場所で、何度ももがく辛さ。
自分をもち、才能や影響力などの武器を持って生きている人が眩しく、怖かった。
「そのレベルなのね」「そんなにもがいて…」と思われていることを敏感に感じて傷つきながら、自ら「どうせ無理」という諦めのレッテルを貼っていました。
自分がどんなことを考えていて、それはどんな理由でそう感じるかを知る。
自分を理解し、受け入れる。
本当はどうしたいのかが見える。
自分と向き合う小さなステップの積み重ねでした。
変化は日常の小さなところに表れます。
やりたいことリストと名づけて自分に課したことの多かった休日のある日、ぷりぷりとアイロンをかけながら思いました。
どうしてわたし、ぷりぷりしているのだ?
アイロンをかける理由ってなんだろう。
自分の中に潜ると、見えてきたのは「洋服はピシッとなっていないと気持ち悪いのよ」と言いながらアイロンをかける母の姿と、それを見ている幼い自分。
「忙しくて自分のシャツはグシャグシャのままだったとしても、子どもの給食マットや給食エプロンにはアイロンをかけるよね~」「うんうん、同じ~」と話すママ友たちの言葉を聞いてギクッとしている自分でした。
いいお母さん=アイロンをかける、と自分にそっとかけたタグに無意識でした。
誰にも頼まれていなかった……。
わたしはいいお母さんに見られたかったんだな…。可笑しくて、ふふっと笑うとともに力が抜けました。
アイロンはかけたいときにはかけよう。
かけるの無理、かけたいと思わないときにはかけないという選択でもいいね。
その時の自分に素直になろう。
一枚一枚、背負っていたものを脱いでいます。
わたしらしく生きたい。
ただわたしのまま、縛られずに生きたい。
自分がまきたい種をまいて、その収穫を喜びたい。
誰かが一緒に喜んでくれたら幸せだけど、みんなが喜んでくれなくてもいいよ。
自分が楽しんでいるかどうかに耳を傾けて生きていこう。
そう思えたのは、聡子先生や仲間と出逢えたから。
一人ではきっと難しかった。
わたしと同じように、苦しい、変わりたいと思っている人が、自分を発見できる糸口を見つけられる体験講座を開きたくて模索を始めました。
場所、費用、集客。
実際に動き始めたら、次々と浮かぶ問題。
またレッテルを貼りそうになる自分に、新しい自分が声をかけます。
「大丈夫、きっとできるよ。それに、一人じゃない」
そして先日、素敵な保育を体験しました。
そこで過ごす子どもたち一人一人が、ありのままの自分で過ごしていたの。
次回、ご紹介したいなと思っています。
最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。